11年ぶりに新品の電動ガンを購入したのだが、構造上の欠陥で金属アウターバレルがカタカタ動く。
しかし、銃器も刀剣もカチャカチャ部品が動くのは良くない。
時代劇などで刀を裏返したときに「チャッ」と鍔鳴りの音が効果音として入ることがあるが、鍔とハバキを固定する切羽というスペーサーの厚みが合っていないからであり、本来は鍔鳴りがする刀を腰にする剣士はいない。緩んでいると鍔が前後して衝撃を増し、斬撃の際に目釘が折れる可能性があり危険だからだ。
現代剣士で無頓着な人が鍔鳴りするまま稽古したり試合に出たりしていることがあるが、危険なのでアウトだ。神奈川県連の場合、鍔鳴りがしていたら退場だった。
映画『柳生一族の陰謀』でも、柳生但馬の息子の遺品の刀を但馬と十兵衛が検分する際に鍔鳴りの効果音が入っていたが、大変残念な描写である。天下の剣の家である柳生の子息の刀が鍔鳴りがするような手入れの悪い刀を使用する事は万が一にもあり得ないからだ。
これと似た誤った時代劇の効果音に「刀を抜刀した時の音」がある。
武士の刀は抜刀しても音は出ない。ダメな時代劇や外国映画にある「シャリーン」という嘘みたいな抜刀の音は、軍刀のような鉄製鞘から抜いた時のこすれる音であり、現実には朴の木の鞘から抜いた時は、ほとんど無音である。
私が居合で使う刀の鍔。
鍔の表側の柄との間、裏のハバキとの間にそれぞれ切羽が入る。
「切羽詰る」の語源は、もう余裕がないということ。
私の刀は居合用も試斬用も鍔はガッチリ固定している。
切羽は厚みの異なる物を数枚用意し、隙間が微塵たりともないようにギッチギチに詰める。
マルイUZIも早速、調整した。
バレルのリテイニングナットを外して、アウターバレルの基部とナットの内側にある空間を埋めるためにウレタンでクッションダンパーを作り、スペーサーにしてシール貼りした。
アウターバレルはまったく動かなくなった。異音もない。
実銃と違い、バレルが加熱されることもないので、ウレタンのスペーサーで十分だ。
これでよし、と。
(マルイってさ~、次世代AK74もハイダーがカチャカチャ動くんだよね~。よくないね~、こういうの)
東京マルイUZI ~ちょっとした加工~
2011年 津地商会第1回定例エアソフト
場所:SJフィールド
日付:January 9, 2011. 9:30am~
参加:32名、見学4名
天候:曇り、時々晴れ
私は終日これを使った(撮影:テラさん)
(クリックで拡大)
どういうことだ!
なんて使い易い銃なのだ。
T字形のシルエットとデバイス。戦後第一~第二世代の突撃銃スタイルに慣れきってた私には先入観として違和感があり、握ってみてもグリップと本体の角度が直角(拳銃でさえ銃把は斜めになっている)で、扱いにくいと思っていた。
だが、現実は異なっていた。極めて扱い易い。
世界中の多くの軍隊、警察で使用された理由が分かる。
さらに、実銃に至っては、イスラエルが戦後の自国周辺情勢を背景にして、戦後即席でこしらえた銃にしては完成度が非常に高く、タフネスで信頼性が高い。これを使わない手はない。
UZIはイスラエル本国だけでなく、ベルギーのFN社やアメリカ国内でもライセンス生産された。
エアソフトガンは実銃とは異なるファクターが多く、実銃データを単純にエアソフトガンになぞらえることはできないが、私が使う限りにおいてUZIはエアソフトゲームでトップクラスに位置する使い易さと判断した。
誰だ?「マルイUZIはサバゲに向かない」などと物知り顔で言ったり書いたりしている奴ぁ。
そういう概念が出てくるのは、この銃の特殊な内部機構の設計思想を無視してハイサイクル化しようとしたり、ラージバッテリーを繋いでアンペア数を規定値以上に上げたりという理屈に合わない無茶なことをやるからだ。初速についても、高初速、弾数ばら撒き型無制限(多弾数マグ主体)ということを「前提」としているから、「マルイUZIはサバゲに向かない」などというレポートになってしまうのだ。
その内容のサバゲ自体が内実のあるものなのか自己検証してみることがまず先だろうと思う。
サードパーティーの内部部品を意味なく組み込んだり、ハイパワー銃を作ることを前提としたサバイバルゲームの方向性とは相反するという点で、このマルイUZIは人気が出なかった。
初速は箱出しで83m/s出ているので、90m/sレギュレーションのエアソフトでは十分だ。言ってみれば、威力としては他の銃とイーブンなのだ。
そして、集弾性はアサルトライフルに及ばないものの、飛距離はホップ調整でかなり飛ぶ。合格点どころか、冷徹に判断すれば、お奨め製品だ。
お店のうどんの汁の味が少し変わっただけでも客の舌はごまかせないものなのに、最近のマルイの今の製品の有様は、どうにもいただけない。
きょうは、一日、この在りし日の東京マルイUZI(1998年製)をもてあそぶように楽しみながら、様々なテストをしてみることにした。
まるで、初めて乗る新型レーサーを筑波やFISCOで確かめながら走らせ、マシンと対話しながら乗るように。
現在の変質した東京マルイの社風と製品群とは異なり、この歴史に埋もれたUZIという製品にこそ、よき時代のマルイの良心を見る思いがした。
私は、設計者に大いにエールを送りたい。(機構的にも瞠目するシステムである)
ただし、「ハイパワー、バラマキ、弾数無制限」を嗜好するゲーマーたちの目にはこの製品の良さは逆に「大きな欠点」と映るだろう。
幸か不幸か、津地商会という集団がめざすゲーム作りには、この東京マルイUZIの設計思想と性能特性は、ビタッと適合する。
おかげでゲームは正月2日の新年顔合わせゲームの方が定例のような気合、本日がイロイロ楽しみながら、という逆転現象になってしまった。
しかし、この銃は、ゲームスタイルだけでなく、楽しむ心さえ原点回帰させる魅力を持っていた。
そして私は、昔を思い出したようによく動いた。
【動画 その1】
http://www.youtube.com/watch?v=fJBZQ07wwDk&fmt=16
【動画 その2】
http://www.youtube.com/watch?v=FmpYAWrUtnI&fmt=16
ゲームそのものもジョイフルで、最高の一日なのである。
(クリックで拡大)
P.S.
れをぱるど氏が作ってくれたスープ、めっちゃ美味かった。
やるなあ。
映画『ロビン・フッド』
(2010年/米・英合作/ユニバーサル)
監督:リドリー・スコット
主演:ラッセル・クロウ
公式サイト:http://robinhood-movie.jp/
日曜日のゲームの後、有志で「川島ジャンボうどん」へ。
うどんツユの味が変わっていた。残念な味に。
その後、仲間内で温泉に入り疲れを癒す。
さらにその後、友人2名と映画『ロビン・フッド』を観に行った。
当り!
最近、映画館で観た映画はド外ればかりだったので、これは見応えがあった。
ラッセル・クロウは『クイック・アンド・デッド』に出ていた時から好きだった。私生活では勝新太郎みたいらしいが(笑)
作品は「大作」。
最後の合戦シーンは、イギリス本土に元寇のように侵攻してくるフランスの軍船と海岸の崖こそCGだろうが、騎士たちが乗る馬の大軍はあれ実写でしょう?
イギリスとフランスは切っても切れない関係ながら、一時イギリスはフランスに統治されたり、フランス領土がイギリスに占領されたり、挙句の果てには百年戦争で決定的な敵対国となった歴史がある。
その端緒は1066年にフランスがイングランドを征服したことに始まり、1154年までノルマン人がサクソン人を支配下に置いたことが後年まで続くイングランドとフランスの敵対の下地となっている。
イギリスとすれば、フランスからの支配時代にはフランス諸侯と縁戚関係を築くことでフランスの領土を逆に分捕り返していくしか方法がなかった。
注意すべき点は、この時代には国家という概念が存在していないため、イギリス国王はフランス国王の諸侯の一人であるという関係にあったことだ。
まるで、遣隋使の時代に中国が日本を属国とみなしたのに似ている。
この映画作品の時代設定は1199年、日本でいえば鎌倉時代。原作ではロビンは1160年生まれだから、牛若丸=源義経のふたつ年下になる。
当時の英国とフランスの事情は、フランスのフィリップ2世(在位:1180年~1223年)がフランスの王位に着いた時点ではフランスの西半分をイギリスが支配するようになっていたのだが、フィリップが英国に対し巻き返しを図っていく頃。イングランドでは獅子心王と呼ばれたリチャード1世から息子のジョン王(失地王とフランス人から嘲笑されていた)の時代。
イングランドの傭兵だった石工の息子のロビン・フッドは、ある戦闘でイギリス王が戦死した際に奇縁で騎士を僭称することになる。
そして、フランスがイングランド本土を大船団で攻めて来るのを「騎士」としてイングランド軍と共に戦い、フランスを撃退する。
だが、戦闘の英雄となったロビンフッドは、ジョン王から身分僭称の罪で無法者として手配されてしまう。
ラストは、階級のない自由なコミューンを森に作ってそこで生活するロビンと仲間たちの姿があった。
この映画、評価のしようがない◎
ことしのアカデミー賞はこれなのでは。
西洋武具や時代的な服装には知識が乏しいのだが、作品中、どうもリアルに見えて仕方なかった。
サイトを見ると、製作者は相当な拘りがあったらしく、話す英語も12世紀のノッテルダム地方の方言を克明に再現しているのだそうだ。
やるなぁ。
作品を観てて、どうにもロビンが九郎義経とイメージが重なった。
役者もクロウだし(笑)
クロウの歩行法に注目。
つま先を外には向けては歩かない戦士の歩き方だ(がに股は良いが爪先が外は×)。
日本武道ではこれを「虎の一足」と呼び、猫科の動物が歩くような歩行で歩むことを教える。イメージとしては、かかとが接地した後、小指側から接地して、親指で地面を蹴る。体重移動が均一で、安定する歩行・疾走方法なのだ。現代科学でも、爪先を内向きに歩くことが高速度や長時間のランニングや歩行に適していることが解明されている。
よく日本では「小股の切れ上がったいい女」という表現が使われるが、いい女は決して外股歩きはしていない。モデルのようにキュッとまっすぐに歩く。そして、そのような歩行をすると、生理学的に尻は垂れなくなる。
外足で歩き続けるのが習慣になると、だらしなく尻の筋肉は垂れ下がる。
体の機能を理想的に活用することは、美にも通じることなのだ。
女性は化粧やダイエットなどに血眼になるよりも、歩き方を研究した方がよい。
映画を観ていて「おや?」と思ったが、そこまでクロウが戦士の歩きを再現しているとしたら、スタッフ同様かなり凝った役作りをしていることになる。
とにかくおすすめ。公開しているうちに映画館へどうぞ!
これはDVDよりも映画館で観た方が絶対に良いだすよ~。
最後のクライマックスは超絶極大射程の「ガンモ射ち」だもん。
しびれた(笑)
評価:評価不能↑/100点
エアソフト・コスチューム
エアソフトでは、「コスプレ」という要素が大きな割合を占める。
ゲームだけならば、作業着や運動着で十分なのではあるが、軍用野戦服というのはやはりそれ用に丈夫に作りこまれているので、屋外でのエアソフトには欠かせない。迷彩カラー
によって周囲の風景と溶ける効果も発揮できるし、本当の軍隊ではないので、自由に自分で好きな柄物の服を着られるのもエアソフトの魅力だ。
2011年1月2日
南アフリカ実物ベレー+Rhodesian S.S.バッヂ、
1956年製ベルギー空挺パラスモック(デニソン・パターン)
英軍P-37装備+P-90パウチ
FN FALパラカービン(50.63)
2011年1月9日
英軍空挺ベレー+パラバッヂ(クイーンズクラウン)、
英軍P-90 DPMスモック+P-90 トラウザース
UZIサブマシンガン
1月9日ゲーム中の迷彩
さすがに、マルーン(赤)ベレーは目立つので、
ゲーム中に空挺色の赤をかぶることはあまり
ない。(時々ある)
DPM(分裂迷彩)の効果
画像左の方でワッチキャップを被っているのが私
英軍DPM迷彩は、英国が世界各地への派遣(覇権)を目論んで考え出した色柄であるので、砂漠地帯を除く世界中の風景に溶け込む。特に温帯地帯(テンパレイト)では迷彩効果が高い。迷彩服だけを見ると色柄がハッキリしすぎているように思えるが、実際に野外で見ると、この画像にあるようにその迷彩効果の高さに瞠目する。英国以外でも採用する国は多く、東南アジアではインドネシア国軍が採用している(チッ!思い返すに嫌な国の軍隊だぜ・・・・)。
自分で好きな迷彩服や帽子を選べるのがエアソフトの良いところで(チームによっては同じ服装以外認めないところもある)、その中で隠秘効果の高い柄や色を自由に選択するのも楽しみのひとつといえる。
youtubeなどで英国から「グリーンのベレーはエリートのベレーだから脱ぎな」とか言って来る18歳の正真DQNがいたりするが、自由の国に住む我々には「はぁ?おとといおいで」で関係ないのである。
ここまでエンターテイメント?【子連れ狼】
DVD BOOKで萬屋錦之介版の『子連れ狼』(全3巻)を購入した。
TV版『子連れ狼』は1973年から1976年に渡り、3部構成で放映された。
原作は劇画で、小池一夫原作・小島剛夕作画のヒット作品で1970~1976まで「漫画アクション」に連載された。
本作は、最初、若山富三郎が映画化し、拝一刀を演じた。
TV化で萬屋(中村改め)が拝一刀を演じることが発表された時、若山は激怒し、真剣で萬屋と勝負してやると怒鳴り込もうとしたらしい。
その後、プロダクションの交渉の結果、TV版にも勝プロが深く関わる権利を得ている。
今回購入したDVDは、1巻ごとに第1~3シリーズの画像入り解説特集で、付録のDVDには各シリーズから各4話(初回と最終回含む)ずつが収められている。
著作権の関係からか、第1~2シリーズのオープニングの映像と曲は挿入されていない。(第3シリーズのシトシトピッチャンは入っている)
少年時代に食い入るように観ていたTVドラマだ。
だが、今改めて観ると、制作上のミスにも気づく。
その最大の?がこれ。
(裏柳生の総帥、原作の柳生烈堂)
原作劇画では、一刀との戦いで手矢を目に受けて列堂は隻眼となる。失明したのは左目。
ところが、TVドラマの第一作では、どういう訳か右目となっている。(烈堂役は大河ドラマで信長役を演じた高橋幸治)
これは時代劇ファンにとっては有名な逸話であるが、なぜ第1シリーズで右目負傷としたのか、今もって謎なのである。
第2シリーズ(烈堂/西村晃)と第3シリーズ(烈堂/佐藤慶)では左目となっている。
他にも刀剣マニアとしても、見逃せない点がある。
劇中で殺陣で使う刀は殺陣用の木製刀身に銀箔を貼ったものであるのは安全性を確保するための時代劇の定番だが、第1と第2シリーズのアップシーンでは真剣を使っていた。
主人公の元公儀介錯人拝一刀が愛用する刀は「胴太貫」。
これは、実は原作劇画の架空の刀である。
元々は九州肥後菊池の延寿の流れを汲む戦国時代の刀工群に「同田貫」という一派があり、原作ではこれにヒントを得て架空の「胴太貫」という頑丈な鉄をも切れる戦場刀を一刀の愛刀として設定したようだ。
原作の「公儀介錯人」という役職自体が実在しないのであるから、そこは創作でも大いに結構なのだが、原作では「山田朝右衛門」が登場する回の表紙トビラに胴太貫の銘を作画して載せてしまっている。
それによると「清水甚之進信高 胴太貫」とある。
中学生の時、これに一瞬騙された。ドウタヌキの作者は信高かと思った。
その後、同じ中学生の時に調べてみると、清水甚之進藤原信高は、尾張徳川家下に実在する利刀を作った刀工で、柳生連也の愛刀であることが分かった。そして、連也の愛刀には泰光代の作もあり、これは「鬼の包丁」と呼ばれる。
劇画『子連れ狼』では、拝一刀に倒される山田朝右衛門の愛刀が「鬼包丁」であり、一刀の胴太貫信高にしろ朝右衛門の鬼包丁にしろ、実在の人物柳生連也の差料からヒントを得ているようだ。
そして、柳生連也(厳包としかね)は柳生一門の歴史上最も達人であり新陰流五代宗家なのだが、劇画『子連れ狼』に照らすと「裏柳生」(実在しない)の系統である尾張柳生の宗家筋にあたることになる。
つまり、信高胴太貫を使う拝一刀も拝の討手となる山田朝右衛門も、言ってみれば裏柳生の総帥側の愛刀を使用していることになる。
まあ、創作だから、「分かる人はこの洒落が分かる」といったカルトクイズ的なネタなので、ここは突っ込むところではないと思ったりもする。エピソード的な裏小話だ。
TVシリーズの刀に話を戻す。
拝一刀を演じた萬屋錦之介は、長谷川英信流から昭和の時代に分派した夢想神伝流居合を明らかに学んだことが所作から見て取れる。
納刀法、帯刀法、歩き方(萬屋は爪先外歩きであるのに、拝役で箱車を押す時や帯刀して前進する時、絶対に外足にならない。まっすぐ爪先を前に、やや内気味に向けて体を進める)、すべてから居合道を習ったことが分かる。
その萬屋が演じる拝一刀が手にする「胴太貫」は、アップになるとよく分かるが、体配が九州同田貫のような幅広、直刃調のたれ、青みがかった地肌、延び気味の帽子、二筋樋を掻いた真剣刀身だった。
二筋樋は目に付くので、刀剣に詳しくない人でもすぐに見分けがつくだろう。
(二筋樋の刀身)
それが、第3シリーズでは、刀身の溝が棒樋に変わってしまった。
上:樋なし=若山映画版ではこのタイプ
下:棒樋=萬屋TV版第3シリーズはこのタイプ
これは一体どうしたことか。
『子連れ狼』シリーズは、主人公拝一刀の刀が極めて重要な位置を占める作品であるので、この変更には首をかしげざるを得ない。
しかも!
第3シリーズは、アップのシーンですべて土産物のような安物の模擬刀が使われている。ハバキも刀身のマチも段違いでガタガタな様子が大映しされ、実にチープだ。見る側としては、刀身のアップ画面に第1-2シリーズのような迫力をまったく感じられない。
刀剣の樋が何故あるのかというと、武器としての手さばきからだ。
「鉄道のレールのように断面積を増やしつつ強度を損なわないために考案された」というのはまったくの嘘である。鋼鉄の絶対量(容積)が多い方が構造物は絶対的に強い。
日本刀の刀身に樋を彫ったものは南北朝期に多い。日本刀の刀身の長さや形状は、歴史的な武器使用法の要求に沿って変化してきた。だから刀身を観ればどの時代の作か分かる。
鎌倉時代に元寇で元軍の革胴を切れなかったため、刀身を改良した結果重量が増した。操刀できない程重くなると武器として意味がないので、軽量化のために鎬地に溝を掘って全体重量を軽くしたのである。絶対的な強度は落ちる。
樋がある刀は振った時にドビューッというゴルフスイングのような大きな音鳴りがする。だから初心者が音色の違いで刃筋を確認するにはよさそうだが、厳密にはそれは樋音であって刃音ではなく、多少刃筋が狂っていても樋があれば音が出てしまう。本来は樋の
ない刀身でピュッという短く鋭い本当の刃音を確かめるのが正道だ。
刃筋がなぜ大切かというと、日本刀は切断物体に対して90度に刀身が接触しないと切れないので、その刃の横ブレがないように運刀する必要があるからだ。これを刃筋を立てると呼ぶ。
剣道高段者でも真剣で畳表半巻きさえ切れないのは、刃筋を立てることを知らないから刀身の横面で平打ちしてしまっているからだ。
これをやると日本刀は簡単に曲がる。もしくは折れる。
いくら鉄をも切れる鍛鋼であっても、あれだけ平べったく長く造形しているのが日本刀なのだから、横打ちしたら簡単に曲がる。
刃先から棟にかけて垂直90度の力がかかった場合、比類なき強靭性と切れ味を示すのが日本刀で、横方面や後方から打撃をくらうと、大抵の刀は折れる。折れない為には、よほど粘りのある地金を作り出すか、金属の絶対量を増やすしかない。戦国時代の九州同田貫や備前刀や大分の高田物の刀剣がナタの如き分厚さなのはそのためだ。
TV版『子連れ狼』の第3シリーズでの劇中刀小道具の使い方は、極めて残念だ。
しかも、最終話で、裏柳生の陰謀で刀を工作されて折れた一刀の胴太貫のアップの時、あまりにも細身の模擬刀刀身(当時、ドウタヌキの幅広刀身の模擬刀はなかった)なので、非常に薄っぺらに見えてしまう。う~む、残念。
柳生の草が研ぎ師に化けて一刀の刀を研いでいる砥石がまったく日本刀用砥石でなく、しかも素人が包丁でも研いだのか、真ん中が研ぎ減っていたのはかなり安直な演出だ。第3シリーズからは、それまでの時代劇の作風や時代考証を重要視しない製作者が加わって
製作したのかも知れない。
ザッツ・エンターテイメントと許容するには、主人公が愛用する刀剣が重要な意味を持つ作品においては、このような演出の安直さは疑問だ。
しかし、萬屋錦之介は胴太貫が折れた時とその後の拝一刀の呆然とした喪失感を素晴らしい演技でカバーしていた。
かくして、TV版『子連れ狼』は多くの人に親しまれた。
CMでのパロディも流行り、「三分間、待つのだぞ」は流行語にもなった。
海外でも人気を博し、北米南米西欧で放送された。
子連れ狼はTV視聴者の時代劇離れを食い止める社会現象ともなったが、国内での一番大きな変化は、ドウタヌキという言葉を一般の人たちも知ったことだった。そして、真剣の九州同田貫の価格が5~8倍にハネ上がった。
いろいろ整合性のない点も散見されるが、TV版『子連れ狼』は、エンターテイメントとしてみれば、優れた作品といえると思う。
ところが・・・
原作者の小池さんは何を思ったか、やってしまった。
2003年11月から「週刊ポスト」で、大五郎を主人公にした続編『新・子連れ狼』の連載が始まったのだ。
原作は第1作と同じく小池一夫だが、画は小島剛夕が2000年に他界しているため、森秀樹が担当している。
ところがですね。。。
『子連れ狼』も、主人公の役職自体が架空だし、裏柳生などというのも実在はしないし(尾張柳生は新陰流の道統の本流、江戸柳生は大名柳生家の本流)、時代的にも四代将軍~五代とみられるが、整合性のない話も出てきており、そこは架空の創作話なのでどうにか脇役については目をつむることができる。
山田朝右衛門吉継(1705年-1770年)や、幕末勘定奉行の榊原主計頭(1766年-1837年)が出てきたり等は、まだ本題通過点の登場人物なので許容ができる。
しかし!
登場人物のうち、準主役がまったく別な時代の人間だったら?
これはいくらなんでもやっちゃいかんでしょう?
でも、『新・子連れ狼』は、やらかしてしまったのです。
ざっと、『新・子連れ狼』のオープニングを説明すると・・・
(イ)江戸八丁河岸にて柳生烈堂と最期の戦いに倒れた拝一刀とそこに残された一子大五郎をまたま旅の途中で通りかかった東郷重位が発見する。
(ロ)川原に残された一刀の胴太貫を自分の差料の作者と同じと知った東郷は、一刀の胴太貫を自分の鞘に入れ、ピッタリ合ったことを天の啓示と受け取り大五郎を育てることを決意する。
ええと・・・(笑)
これは、いくらなんでも、どこから見てもやっちゃいかんでしょう?
まず、剣豪の大体の年表をまとめた図があったので拝借。
こんな感じ。
一番上の長谷川英信は私の流派の開祖だが、記録上は117歳も生きたことになっている。当時の医療状態を勘案しても、常識的に妥当とは考えられないことであり、現在は「英信二代二人存在説」が有力になっている。
さて、この図は幸い、拝一刀についてもまとめられていた。
劇画登場人物なので、生没年は推定だが、大体合っていると思う。
そこで、『新・子連れ狼』に出てくるジゲン流の開祖の東郷重位の実在人物の生没年はというと・・・
※東郷重位 永禄4年(1561年)-寛永20年6月27日(1643年8月11日)
もうね、何も、ここまで昔の人を出さなくてもいいだろう、という。
永禄3年が織田信長が今川義元を桶狭間で破った年だよ。その頃生まれた人だよ。。。
しかも、拝一刀本人が死亡した(と前作のあらゆる点から推定できる)年には東郷重位はとうに死んでいる。。。
というか、拝一刀が生まれた頃は、東郷重位が死んでから数十年後・・・。
ちなみに、実在の柳生義仙列堂の生存期間は1635年-1702年。
上の比較表の拝一刀の年齢は、原作劇画中に出てくる烈堂の台詞や各種墓石や塔婆に記された年号から逆算して推定したと思われる。
さらに、読んですぐに「あれ~?あれれ~?」と気づいたが、(イ)で示した「たまたま旅の途中」ってのは何なのだ。
江戸が大洪水になるやも知れぬの大騒ぎのため、柳生烈堂と拝一刀が一時手打ちして果し合いを延期した大災害で、しかも一刀との対決は江戸中の大名家中のみならず、将軍である公方様まで対決を固唾を呑んで謁見し、アブミを外す礼をもって柳生と拝の
武士同士の対決を見守っていたのに、のんびりと「たまたま旅の途中」で八丁河岸に寄ったですとぉ?
戒厳令に近い江戸の御府内で?
あり得へんがな・・・
最初の設定からして無理がある。
第一、東郷はその時代にはとうに死んでいる人物だし。
(というのを千歩譲って差っ引いても、情景設定に無理があり過ぎる)
そして(ロ)。
や、やめてくれ~。
折れた刀を鞘に入れてピッタリと合った?と。
そりゃ折れてりゃどんな刀でも大抵の鞘には収まるがな。
しかも、東郷の鞘はでかいんだし。
それに、ハバキまで同じ厚みだったと?
「鯉口を切る」のはなぜか、原作者理解しているのだろうか。
反りについては折れた刀だからどうにか合うとしても、鯉口までピタリと合うの皆無に近い。0.5ミリサイズが違っていても合わない。
日本刀は外装含めてすべて寸法違いのオーダーメイドだから。
逆に言えば、だからピタリと合ったから「運命」を感じたのかも知れないが、反りと鯉口寸法どちらに転んでも、現実的にピタリと合う刀装具というのは、まずあり得ない。
この出だしからして安直で荒唐無稽な作りなのだが、話が展開していくに従い、とめどもなく正当時代劇路線から度外れて行く。
幽霊や妖怪がストーリーのカギを握ったり、地底世界を探検したり・・・
あまりの荒唐無稽な空想冒険活劇ぶりに、「これは子連れ狼ではない」と、だんだん読むのが辛くなってきて、連載途中で読むのを一切停止した。小島剛夕版『子連れ狼』と世界観が違いすぎるのだ。
出てくる人物にしても、間宮林蔵ってのは何だよ、あれ。
もうね、時代むちゃくちゃ。
東郷重位といえば、柳生但馬守宗矩(永禄8年=1565年~正保3年=1646年)と同世代の人。つまり烈堂の父親の時代の人なのよ。
辛いわぁ、この漫画。
『魔界転生』じゃないんだから。トホホ。
改めて、多少の突っ込みどころはあっても、TV版『子連れ狼』とその原作劇画『子連れ狼』が秀逸な作品であったことを再認識したのでした。
それと、下手に続編作ると、前作の名作が台無しという典型例でしょうかしらね、『続・子連れ狼』は。
(おしまい)
小説『ネプチューンの迷宮』
(私の小説・映画レビューはネタバレ前提ですのでご注意ください)
『ネプチューンの迷宮』
(佐々木譲著/新潮文庫/2011年2月5日発行/
初出は1993年毎日新聞社刊行)
(帯コピー)
~直木賞作家の傑作冒険小説~
クーデター勃発!
南国の島を部隊に繰り広げられる国際謀略
<あらすじ>
赤道直下のポーレア共和国支配権をめぐって企てられた国際的陰謀。大統領派と反大統領はが激しく対立。
その渦中に元海上保安庁特殊救難隊隊長の宇佐美が巻き込まれた。南国の小さな島を部隊に繰り広げられる謀略と陰謀の嵐!(解説・池上冬樹)
<読書中感想>
長いのである。
本編は743ページにわたる。原稿用紙にしておよそ1200枚という膨大な大作だ。
だが、この作品は、序章を除き、たった一日の出来事を描いた作品なのだ。
文体は、文学作品として私自身がどうしても好きになれない体言止めを多用している。
体言止め自体は別段どうでもないのだが、やはり連続多用すると文調が薄っぺらに感じる。
ポイントを見定めて巧みに用いれば軽快さと緊張感をかもし出すエッセンスとなるが、大抵体言止めを多用する著述者はそれをしておらず、無思慮に連発しているフシがある。
(不思議なことに女性が書く文章に特に多い)
体言止めの連発多用は、文壇では「下品である」とされている。
傭兵物長編作品というと、どうしてもフレデリック・フォーサイスの『戦争の犬たち』と比較してしまう。
私はあれを超える傭兵物作品に未だ出会ったことがないが、名作がそこにあるからこそ、作家は筆のふるい甲斐があるのではないだろうか。
熊谷達也あたりが、もし傭兵物を書くとしたら、とてつもなく壮大で人心の機微を捉えた面白い作品が書くだろうと思うのだが、熊谷氏は別系統の分野の作品群に属するのが何ともファンとしては歯がゆい思いがする。
小説家の仕事とは、構成力を以って臨むストーリーテラーとしての力量だけでなく、文体や文調という筆力が圧倒的決め手になる。
熊谷氏の作品がいくらプロットや文体で人の心を捉える力があるとしても、分野違いの戦争物を期待するのは、ファンの我侭というものだろう。
(注:熊谷氏は小説すばる2007年12月号に発表した『聖戦士の谷』において、アフガニスタンなどの紛争地取材で活躍するフォトジャーナリスト長倉洋海氏の著書から表現などを無断で使用するという剽窃行為を行い、これにより、同作品の連載が打ち切りになるという事件があった模様)
本『ネプチューンの迷宮』は、構成と構想において目を引く発案があるが、いかんせん文体が文学作品として馴染めない。ただし、構成はかなり良い。
冒頭に旧バナバ(英名オーシャン)島民のあいだに歌いつがれた民謡(この歌の内容が本作品の思想性の背骨となる重要な意味を持つ)を掲げ筆者が翻訳を試みる等、緻密に計算された丁寧な作り込みの作品である。
それだけにその緻密さと相反する軽佻な体言止め連発の表現方法が文体に軽薄さを付与させてしまうのが惜しい。軽薄な文体によって彩られた小説は、プロットのアイデアだけが売りのようになってしまうからだ。(高橋源一郎のように文法と文列を意図的に無視して
日本語の既成概念を崩す破壊的文体を採る作家は別次元の問題。彼のその手法は極めて計算ずくであり、彼の言葉の渦は射程と命中率を見切って撃ち出す機関銃の弾丸なのだ。だが、私は彼が本当は芥川賞を取りたかったというのを個人的に知っている)
本作品は通常の傭兵物ではなく、「傭兵から攻撃される側」の視点を描いている。さらにその傭兵を雇ったのが日本政府、その理由が南国の小さな島を丸ごと原発から出た核廃棄物の廃棄場とするための謀略、という設定は斬新である。(現実世界では1980年代初頭に画策されたことなのだが)
作品の舞台の架空の国、ポーレア共和国
太平洋に浮かぶ架空の小国なのであるが、作品中の地図から、その地形は隣国のナウル共和国を参考に、南北の軸線を変えないまま地図を左右反転させたものであることが判明する。道路まで一緒である。
(実在のナウル共和国)
(地図左右反転)
こうした手法は、フォーサイスの名作『戦争の犬たち』でも使われている。
『戦争の犬たち』では、アフリカ中央部の架空の国家ザンガロの首都クラレンスの地形が作品中に詳細に記されている。
傭兵たちがその地形のどこにどうやって何のために部隊を分散して上陸させたか等を克明に把握して作品を深く読み込むためにも、作品中の地形の把握は作品ファンの読者としては欠かせない。
この手の作品は、流し読みをしていては、作者がポイントとする点(大抵のケースは作品のテーマにつながる描写を伴う)や、作品で重要な幹となる「布石」を見落としてしまうことになる。
私は、『戦争の犬たち』においては、作品の中で記された架空国家ザンガロの国内の地名と地形をもれなくノートに書き出して地図を描いた。
そして、フォーサイスが現実世界で赤道ギニアのクーデターに関与した痕跡をたよりにアフリカ地図を検証して、作品中の架空都市の首都クラレンスの地形と酷似した実在の町を見つけた。
それはやはり赤道ギニア、その首都マラボだった。
(クリックで拡大)
この「クワガタ虫の角」のような地形の両端に部隊を進めて主人公キャット・シャノンことキース・ブラウンは1970年にザンガロに上陸して攻めて行った。作者フォーサイスは赤道ギニアの地形をモデルに『戦争の犬たち』を書いていたのだった。
実在の町マラボは英国人によって「ポート・クラレンス」と名づけられていた。
現実の赤道ギニアは、小説のように傭兵部隊による民主政権獲得とは程遠い歴史を刻み、1979年にマシアス・ンゲマ政権はクーデターにより崩壊するが、ンゲマ治世の末期には、「赤道ギニアはアフリカのアウシュビッツと化した」といわれるほど、政権の残虐性が世界に露呈した。その拠点である首都マラボは、まさに恐怖の象徴であったという。
79年のクーデターによりマシアスは処刑され、甥のテオドロ・ンゲマが独裁者となるが、現在に至るまで強権支配体制が敷かれている。
こうした作者の下敷きを探り出す作業は、いわゆる現代のアニメファンが行う「聖地巡礼」のような作業だ。
だが、込み入った小説や推理小説、戦争物を読む(字面を「見る」のでなく「読む」こと)には、多少手がかかっても(記憶力等が優れた人はメモなどいらないだろうが)、こうした作業はやって損はない。
戦争物や推理小説では時間と行動、地形と地図=位置の把握がとても重要になってくるので、作者は読者に時間と位置を読み取る技量を試してくる。コアな小説ファンは作者からの挑戦を受けて立ち、作者が作品中で記している「点と線」を探し当て、さらには作者が隠している埋設物までも探し当てる。
私は特別に集中したい作品以外は小説は平行して何冊かを併読する。
この作品も、今野敏『ビギナーズラック』、熊谷達也『勘違いのサル 日本人の貌(かお)、作家の貌(かお)』と平行して読んでいる。
『ネプチューンの迷宮』は、読後にさらにレビューしたいと思う。
ちなみにネプチューンとは、調べたら、イタリア神話のネプトゥーヌスの英語読みであり、ギリシア神話でいうポセイドンのことらしい。
小説『ネプチューンの迷宮』外伝
小説『ネプチューンの迷宮』は1993年に毎日新聞社から刊行された。
この小説の舞台になった南太平洋に浮かぶ小国ポーレア共和国は、実在の島ナウル共和国をモデルにしている。
ナウル島
ナウル共和国については、2011年現在、wikipediaでは次のように紹介されている。
<概略>
アホウドリを始めとする海鳥の糞の堆積によってできたリン鉱石の採掘によって栄えてきたが、20世紀末に鉱石が枯渇し、深刻な経済縮小に見舞われている。かつては国民は世界で最も高い生活水準を享受し、国は国民に対し税を徴収せずに、無料の医療、教育、年金制度(老年年金ではなく全年齢層に対する給与としての支給)、手厚い社会福祉を提供していたが、今日ではそれらはすべて破綻し、基本的インフラを維持するのでさえ困難な情況にある。
<地理>
ニューギニア島から東に2000kmの位置にある周囲19kmのナウル島からなる。赤道よりわずかに40km南に位置し、ミクロネシアに属する。周囲の島からは孤立している。例えば北東のギルバート諸島からは約500km、南西のソロモン諸島からは約1000km離れている。
面積は21km²。
ナウル島はサンゴ礁のうち発達の段階が進んでいない裾礁である。
島の中央部は良質のリン鉱石(グアノ)からなる台地であり、採鉱用の一時的な施設を除くほぼすべての建造物は海岸沿いに並んでいる。
台地は島の面積の約80%を占めており、標高は約70mである。
リン鉱石は数百万年の間堆積した海鳥の糞に由来する。リン鉱石の掘削跡はリン鉱石の下層基岩の石灰岩が露出しており、90年に及ぶ風化と浸食によりカルスト地形を呈している。カルスト地形の進行は、ピナクルという柱状の岩を多数生みだし、島の中央部は耕作はおろか一切の車両が通行できないほど荒廃している。(転載ここまで)
この小説作品が出版された1990年代初頭において、ナウルの将来は予想されたとはいえ、作者の佐々木譲がこの無名の小国の存在を知ってこの作品のヒントとしたのか、あるいは構想が最初にあってモデルとなる国を探したのかは定かでない。
先見の明においてモデル設定はかなりリアルであったといえる。
ただし、日本の国家権力の中枢は選挙で選ばれた政治家が構成する政府ではなく官僚行政執行権力であること、そして、しかしながらその政府なるものが国家権力中枢に及ぼす影響も無視できない、という現実の把握についてまでは、この作品のみからは読み取れない。
著者佐々木がこの作品を書いたのが冷戦崩壊直後であり、日本の政党政治も混迷を極めた時代に先を読んだ作品として残したとはいえ、彼をもしても予想外だったろう事態が今日本に起きている。
21世紀を10年過ぎて、未曾有の大災害に日本が襲われ、原発の安全神話が完全に崩壊して、日本政府の原発政策に見直しを余儀なくさせ(原発推進派であった旧与党の自民党からさえも脱原発の声が上がりだしている)、また世界第三の規模の原発事故により世界中の国家に脱原発の気運を呼ぶことになったことまでは予想できなかったようだ。
ただし、かつて現実に日本政府が手を染めたミクロネシアへの核廃棄物の海洋投棄(危険な放射能のゴミは自国でなく他所の海に捨てちまおうという政策)を批判的に取り上げており、また主人公たちの敵の黒幕が日本政府であることも、この作者の一定の視座を体現している。
自称元傭兵作家たちに見られる「アメリカ万歳、日本政府万歳、アメリカの敵はすべてテロリスト」という単細胞一直線の脊髄反応で作品を描いていないことだけは確かだ。
こうした視座は渡辺裕之の『傭兵代理店』シリーズにも見受けられる。
『傭兵代理店』には、国家権力に追従することに飽き飽きした(というかむしろ主人公においては「虫唾が走る」)元警察官の主人公が、「戦争とは所詮大国のエゴだ」というフォーサイスが『戦争の犬たち』の主人公の傭兵シャノンに語らせたことと同じ視点がある。
こうした視点は前述の元傭兵作家たちには微塵もない。自戒というか自問や苦悩は一切ない。自分たちに対して疑問を抱く者や抗議を試みる者たちは「敵」であるとし、徹底的に叩く。叩くことや痛めつけることに快感さえ覚えているかのように叩く。単純だ。しかし、人の世にあっては、それを明快とは呼ばない。
小説や映画作品などに触れると、「どちらの側に立つのか」という作者の基本的な姿勢や思想性というものが明らかになってくる。
自問自答してより建設的な未来を求める思想を有する人間なのか、あるいは疑問を投げかけた者たちを「反勢力分子」として抹殺することに「正義」を見出して快感を得る心象の人間であるのか。
佐々木譲の小説は、私にとっては明らかに「こちら側」であると感じる。
ブルータスお前もか!!
ちょっと古い話題ですが、2008年の産経新聞から。
(以下転載)
直木賞作家の熊谷達也さんが月刊文芸誌「小説すばる」(集英社)に発表した小説に、アフガニスタンなどの紛争地取材で活躍するフォトジャーナリスト、長倉洋海さんの著書から表現などを無断で使用していたことが15日、分かった。 同誌4月号に経緯と「お詫び」が掲載された。
同誌などによると、熊谷さんは同誌昨年12月号に「聖戦士の谷」を発表。これについて、長倉さんから「自著に依拠して表現を無断使用している個所が複数あり、見逃せない」などと抗議を受けた。
編集部で精査し、熊谷さんとも協議した結果、著作権侵害に当たる可能性が高いと判断、連載打ち切りを決めた。同誌4月号に熊谷さんと編集部の連名で、1ページの「連載中止の経緯とお詫び」を掲載した。
このなかで熊谷さんは「深く反省し、二度とこのようなことを起こさない」、編集部は「確認作業が至らなかったことを反省し、再び起こらないように注意する」としている。
(転載ここまで)
大好きな作家の熊谷達也さんですが、あなたまでもですか・・・。
私もアマなのに幾度となくいろいろなプロの方々に文章を持って行かれて小説にされたり、雑誌の記事に盗用されたり、文章内容をまるまる漫画にされたりした当事者ですが、やはり、物書きのプロならば、他人様の文章を「イタダキ!」てのは、いただけません。
そこで一句。
転載は しらないころに やっている (盗作者)
(これも転載ですが、一応作者の了解は取っています。笑)
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「徒然日記」
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巨匠クロサワのミステイク ~映画『七人の侍』~
黒澤明監督の映画『七人の侍』(1954年東宝)は、洋画邦画を含める全作品の中で一番の傑作だと私自身は思っている。
『七人の侍』は何度観たかわからない。
しかし、巨匠世界のクロサワも歴史的名作の中でも大きなミスを犯す。
いくつかあるが、ひとつだけ紹介しよう。
野武士が襲ってくることがわかり、村人を軍事訓練した傭兵たる七人の侍たち。
五郎兵衛(稲葉義男)と久蔵(宮口精二)が村の防備の様子を見まわっていると、どうにも持ち場についた村人たちが怯えている。
「どうもいかんな」と思案に暮れていると、別な防衛拠点の持ち場からエイエイと気合を入れる村人たちの声が聞こえてきた。見ると七郎次(加東大介)が農民たちに気合をいれて指揮し、全員で気勢を上げていたのだった。
この時のシーンの久蔵の刀に注目してほしい。
長丸型の鍔で表の左に小柄穴があいている。
そして、一瞬画面が向こうで気勢を上げる七郎次たちにカットが移り、再びすぐにこちらの五郎兵衛と久蔵にカメラが移る。
「これはよい、こちらもやるか」となってこちらの持ち場でも村人たちを鼓舞するのだが・・・。
ありゃりゃ!
久蔵の刀が別な刀になっている(◎。◎)
丸型鍔で左に小柄穴はなく右に笄(こうがい)穴がある。鍔の表左には梅鉢の透かしがある。明らかに違う鍔である。
この場面カットが変わる時間はわずか2秒ほど。
ラッシュ段階でちぐはぐさに気づいてももう撮り直しはできない。編集で短く繋げることでちょっと見には違和感がないようにしたのだろう。
このようなことはごく最近の山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』にも存在する。
この『たそがれ清兵衛』は、撮影上の違和感がないように、徹底的にシナリオと映像と演出にこだわりぬいた作品だというのがDVDのボーナストラックの撮影秘話から十分にうかがい知れる。
ところが、清兵衛(真田広之)と甲田豊太郎(大杉漣)が河原で対決するシーンで、なんと大杉漣さんは左手の薬指に大きな指輪をはめたままなのである。これは実は撮影時に監督含めて誰も気づかなかったのだという。そしてラッシュでそれに気づく。しかし、出演者のスケジュールが揃わず、撮り直しがまったくできない。やむなく「このままで使う」ということになったという。だから幕末の武士が現代指輪をしているという極めて珍妙なシーンになってしまった。以前から「なぜだろう?」と思っていたが、DVDを見てその理由が判明した。
映画という作品では映像上の齟齬(そご)がかなり多くあったりする。
アクション映画などではほぼ確実に存在したりする。『プレデター』でも、サソリを踏みつけて潰して靴を上げたらサソリの向きが逆になっていたりとか。
しかし、大抵は短いカット割りやカメラアングルを変えたりして違和感をなくす偽装が施されていたりする。ただし、そのままのカメラアングルの場合、ちぐはぐさ
が目立ってしまう。
記憶に残る一番映像上のちぐはぐさが多かった作品は『ハスラー2』だった。
これは私は公開時から劇場で観た際に多くの部分に気が付いていた。
ビデオで再度観たとき、あまりに多いので驚いた。ビリヤードのシーンなどは、顔のアップになって次にテーブルにカメラが移動すると玉位置が違っているなどというのはほぼすべてのシーンで存在した。
世界のクロサワでさえどうしようもないことがある。
それは、「撮り直しがきかない」ということだ。
しかし、『たそがれ清兵衛』は、CGもそこそこ使っているので、CG処理で指輪だけを消すことは十分できたのではなかったろうか。黒澤監督の時代は仕方ないとしても。
よくできた傑作『たそがれ清兵衛』だけに、唯一その指輪はめたままというシーンのために画竜点睛を欠くような気がしてならない。
黒澤明『七人の侍』においてもまだほかにもつじつまが合わないシーンが沢山ある。
特に、村の中をどうやって守るかと島田勘兵衛(志村喬)らが地図を作り、村の隅々まで下見して回るシーンで、人物の影と太陽の位置、それと地図を見比べると、実は実際の東西南北とは関係ない場所なのに地図上の東西南北に当てはめているのが即座に判明する。これは私は、初めて『七人の侍』を観たときに瞬時に違和感を覚えた。軍事的に東西南北、太陽の位置、地形、地相の即断察知というものは骨の髄まで染みこませなければならない「生存」のための戦闘者の必須事項だ。
たとえ映画作品だろうと、生死にかかわるシーンでは「のんべんだらり」とは私は観ていられない体質となってしまっている。飲食店に入っても、どんな客がどの席にどんな服装でどのような体勢で位置しているかは意識せずとも今でも即断認知する。
映画における地形や敵を含む人物の位置関係等の違和感は素肌で感じ、齟齬は即座に判る。
特にクロサワ作品は「なんとなくそんな感じ」という「雰囲気ファンタジー」を監督は撮ったわけではないので、たとい一人の観客にさえこのような違和感齟齬を察知されてしまうのは、やはり文字通りの「ミステイク」だと思う。
何度もテイクしたはずだろうに映画作りってムツカシイね。世界のクロサワ作品でもこうしたことがあるのだもの。
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